パンの明治百年史
「パンの明治百年史」は明治百年を記念して昭和45年に刊行されました。食文化の向上とパン食の普及に役立てられることを願って後世のために残されたものです。当時の貴重な資料を数多く掲載した、日本のパン食文化の成長記録と言えるでしょう。
パン食は戦国時代にキリスト教とともに日本に伝えられましたが、鎖国のために衰微しました。幕末になると開港をきっかけに日本の食生活が洋風化します。パン食文化も復活し全国に広がっていきました。開港当時はパンと言えば外国人向けのもので、一般には珍奇な食べものでした。それが時代の変化とともに、現在のようなパン食文化に成長していく様子が記されています。パン食の歴史を語る上で大切な各地のパン食文化の特色、製パン技術、製パン原料、製パン機械についても触れています。
このコーナーでは「パンの明治百年史」の全ページ、850ページ余を公開しています。毎日何気なく食べているパンの歴史を深く理解していただけることでしょう。
パンの明治百年史刊行の辞
明治維新と共にはじまつた日本の近代化は、僅か一世紀にしてみごとに花を開き、明治百年を迎えた今日日本の国民総生産は、英・仏・独を抜き、米・ソにつぐ世界第三位の経済大国に躍進したのである。
我が国はもはや中進国ではなくて先進国であり、大国から超大国への躍進の途上にあるのである。
近代日本のパンは明治維新を出発点としているが、殆んどゼロに等しい所から出発したパンも、一世紀を経ずして原麦換算百万屯の線をかるく突破し、いまや国民主食としてひたすら成長街道を驀進している。
勿論これは明治維新以来の文明開化風潮に依る欧米文化の吸収と近世にあつては世界大戦後の国民の健康、栄養に対する認識の向上並に生活水準の連続上昇の影響が大ではあるがそれと同時にわがパン業界及び関連業界歴代の苦心努力精進のたまものに相違ないのである。 歴史は大切な基礎である。経験、失敗、苦心、成功の積み重ねが今日を作つたのである。戦前は歴史を大切にした、戦後はややもすると歴史をないがしろにする傾向にあるが良き因縁あつてこそ良き結果があるのであり、学問は経験、努力の積み重ねを理論化したものであり、とりも直さず歴史がこれ等を造つたのである。
飽くことなく世の中の進歩は続いて行く、日本のパン業界も進歩して行く、先ず歴史を学び理論を弁え過去に感謝し歴史を尊重する。そして、又深く研鑽努力する処に進歩があるのだと信ずる。
後世のパンの正確な資料は是非共残さねばならないと思う。古い日本と新しい経済成長を遂げた日本との繋りをつくるのは吾々の責任であり次代えのサービスだと考える。
全日本パン協同組合連合会、日本パン工業会及びパン科学会並びに学識経験者を構成員とする本会が、この明治百年を記念して本書の刊行を企てたのも、この輝かしいパン食文化の成長のあとを記録し、これを後世につたえると共に、後進各位が歴史のあゆみの中から無限の反省資料を見出すであろうことを信じたからである。
関東大震災と第二次世界大戦の際の企業整備および今回の大戦によつて幾多の貴重な資料が失なわれた、そのために内容的には不充分のそしりを免れないが、それでもここまで全国的資料を整備し得たのは、偏えに同業者並に関係業者各位のご協力のたまものである。
ここに改めて衷心から感謝の意を表したい。
又編纂に際しての執筆担当者安達厳氏の非常な御努力並に編纂委員各位の絶大なる御協力に対し満腔の敬意と感謝を捧げる次第である。 終りに本書が広く各方面で活用され、それが食生活文化の向上とパン食の普及に役立つことを祈つてやまない。
昭和45年8月
パンの明治百年史刊行会
会長 木村栄一
- 内表紙
- 刊行の辞
- 目次
- 記念写真集
- バラエティ菓子パン
- 第一編
- 第二編 第一章
- 第二編 第二章
- 第二編 第三章
- 第二編 第四章
- 第二編 第五章
- 第三編
- 第四編 第一章
- 第四編 第二章
- 第五編
- 第六編
- 第七編
- 第八編 第一章
- 第八編 第二章
- 第九編
- 沿革 北海道のパン
- 沿革 東北地方のパン
- 沿革 北陸・中部地方のパン
- 沿革 関東地方のパン
- 沿革 東海地方のパン
- 沿革 近畿地方のパン
- 沿革 中国地方のパン
- 沿革 四国地方のパン
- 沿革 九州地方のパン
- パンの明治百年史刊行会規約
- 編集後記
- 巻末広告
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パン食普及に大きく貢献した木村安兵衛夫妻の銅像など、パンの歴史にとって重要な写真を紹介したページです。パン食文化が全国各地に広がっていく様子を伝える貴重な写真ばかりです。
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刊行当時の商品写真がレトロな魅力いっぱいに紹介されています。パッケージや飾りつけなども含め、今では見ることの出来ない貴重な記録です。あんパン、チョココロネ、食パン、ロールケーキ、どらやきなどは日本のパン食や菓子の定番に成長し、今でも根強い人気を誇っています。
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日本のパン食文化は戦国時代のキリスト教伝来とともに始まります。キリスト教とパンには深い関わりがありました。鎖国の時代をむかえて一度は衰退したものの、幕末になると兵糧として復活しました。パンの祖江川太郎左衛門と兵糧パン誕生のエピソードも紹介されています。
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明治初頭の日本で、珍奇な食べものと考えられていたパン食が少しずつ普及していく様子が紹介されています。パン食の普及を妨げていた肉食が解禁になりました。また食生活の洋風化が啓発され、鹿鳴館時代の欧化風潮の影響も受けます。パンは、次第に米が不作のときの代替食として役割を担うようになりました。
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西洋文化の影響が強くなり、食生活も洋食と和食が併存するようになりました。その結果パン食も一般に浸透しました。パン屋や製粉工業が誕生した当時の製パン技術などが紹介されています。木村屋のあんパンは西洋の模倣ではない日本オリジナルのパンとして評価されました。宮中でも食べられたというエピソードが残っています。
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明治初頭のパンの普及に大きな役割を果たしたのは、横浜・神戸・築地の外国人居留地です。横浜ではアメリカ・フランス・イギリスなど様々な国のパンが作られていました。神戸ではフランスパンが多く作られていました。築地では外国人向けのホテルやベーカリーを中心に、本格的な食パンが作られていました。日本の職人は外国人から製パン技術を学び、後に各地でパンを普及しました。
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当時のデータから、パン食文化がどのように広まったのか探っています。在留外国人、欧米への留学生、海外移民の帰国、キリスト教の発展、外国人向けのホテル、遠洋航海船舶の乗組員、陸海軍の西洋人士官などから大きな影響を受けました。度重なる戦争によってパンの需要が増えたことも大きな要因です。
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パン関連事業の初期の様子を伝えています。製粉業の近代化、糖業の近代化、ジャムの国内製造などが始まりました。パンの主原料である小麦粉の製粉は水車製粉から機械製粉へ移り変わります。ビスケットがさきがけとなり洋菓子の国内生産も行われました。パン関連事業が成長した最大の理由は、不平等条約の改正です。それまで無税だった輸入品に関税がかかるようになり、国産品に競争力がつきました。
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米騒動を契機にパンは米の代用食としての役割を果たすようになりました。珍奇食から嗜好食へ移行していく様子が記されています。木村屋総本店の暖簾分けで全国にあんパンが広がると、地域のパン屋の技術も向上しました。パンの原料や洋菓子は国内生産が盛んになり、バタ臭いと敬遠されてきた乳製品も大衆に広がりました。資生堂アイスクリーム、中村屋クリームパン、森永ミルクキャラメルなどが誕生したのもこの時代です。
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大正時代になると洋菓子とパンは飛躍的に成長しました。第一次世界大戦の好景気と軍用の需要を受けたためです。製粉会社が競ってパン用の粉を生産し、国内の製粉技術が向上しました。さらに、製粉会社は製パン会社やイースト会社を興しました。パンが主食として扱われるようになり、クッキーなどの洋風乾菓子部門と分離しました。洋生菓子にも専門店が誕生し、それぞれが独立した業態にまで成長します。
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大正時代には日本のパン食文化が急成長を遂げます。木村屋と三河屋をはじめ、有名パン店が発展する様子を知ることができます。日独戦争の影響でドイツの製パン技術が入ってきました。ロシヤ革命の影響でロシヤパンやロシヤケーキも伝わりました。日本の製パン業界は移行期をむかえます。自家培養パン種からイーストが主流になり、機械化製パン法や自動車配送方法も導入され始めました。
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第一次世界大戦後は不況の時代をむかえました。その中でもパン食は伸び続けます。ついに国産の製パン機械が登場しました。バターの代用としてマーガリンの生産が始まります。英国風ジャムやイーストも国内生産されるようになりました。パンの原料である小麦や砂糖に関する貴重なデータも掲載されています。
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第二次世界大戦が始まると政府は食糧統制を行いました。米穀生産高は肥料と人手の不足で激減し、製パン業は有力な米の代替食糧工業としての地位を確立しました。全国製パン業組合連合会が創立され、地方ごとに工業組合が結成されました。一方で製菓業は不要不急の産業とされ、製パン業とは完全に分離されて衰微しました。
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戦後統制期の食糧地獄から製パン業が復活し、自由販売が実現するまでの様子が記されています。製パン業復活には進駐軍が放出した小麦粉が大きな役割を果たしました。戦時中に低下した製パン技術を向上するために技術者団体が発足しました。
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昭和27年にはパンの自由販売が行われるようになりました。日本人の生活レベルが向上して肉・乳・卵を食べる機会が増えました。食生活の著しい洋風化に伴って、パン食が拡大していった当時の様子が記されています。この頃にはパンの品質改善が進み、油脂の加工技術も発達しました。それまで原料に使われていたマーガリンは急速にショートニングに切り替わりました。
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麦類・砂糖の統制が撤廃され、パンは本来の自由販売に戻りました。激しい市場競争の始まりです。作れば売れた時代から、高品質、廉価、種類豊富であることが要求される時代になりました。製パン技術の向上が求められ、技術講習会が当時のブームとなったほどです。パン業界の構造にも大きな変化が起きました。地域産業に過ぎなかったパン企業は財閥と結びついて全国単位の大企業に成長しました。
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明治の文明開化から100年間のパンの歴譜です。大手ベーカリー25社の小史、パン業界功績者の活躍、全日本パン協同組合連合会の歴譜、都道府県別のパン業界の成長過程などを紹介しています。パンは文明開化の頃には南蛮紅毛文化の食べ物、異人食と言われました。それが100年の間に日本に根付き、日本独自のパンを作るまでに成長しました。
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明治2年に北海道と改称され、明治10年にはアメリカ式農法による開拓方針が立てられました。洋風のパンや乳肉を取り入れた食生活が推進されました。戦前には、道産資源を取り入れたパンの普及で食糧自給率を上げるため、各都市にパン工場が作られていました。しかし戦時中の食糧統制によって計画は半ばで終わり、その影響はほとんど残っていません。
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東北地方では、明治維新直後には諸藩が競って西洋文化の導入に努めました。城下町を中心にパンが作られるようになりましたが、これは西洋人のためのものでした。明治以後は、仙台を中心に教会やミッションスクール、官立の大学・高校・師団などがおかれ、パン食の普及が始まりました。
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幕末には長岡藩で兵糧パンを焼いた記録があります。明治元年には新潟が開港し、外国人居留地でパンが焼かれました。しかし当時の新潟港の規模は小さく、食生活の洋風化にはつながりませんでした。諏訪や福井では絹糸や織物などで、早くから外国との交渉がありました。そのため比較的早くパン食文化の影響を受けています。北陸地方の軍事と教育の中心地だった金沢は、ミッションスクールやベーカリーが誕生してパン食文化が広がりました。
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開港以降、横浜は西洋文明牽引の役割を果たしました。フランスパンやイギリスパンが盛んに焼かれました。明治維新で東京は首都になり、パン食ブームとともにパン職人も増えました。次第に日本人の嗜好にあったパンが開発されて広がりました。関東地方では製パン企業の近代化・合理化もいち早くすすみました。
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この地方には幕末の開港場がなく、直接西洋文化に接する機会には恵まれませんでした。しかし横浜と神戸の中間に位置していたため、両方の影響を受けてパン食文化も広がっていきました。昭和前期になると名古屋は大阪と並ぶ近代的製パン工業地帯として業界で高く評価されました。また、伊豆の韮山は江川太郎左衛門が兵糧パンを焼いた近代日本パンの発祥地として有名です。
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織田信長はキリスト教にとても好意的で、キリスト教と関係の深いパン食は戦国時代にある程度広がっていました。近代に入ると神戸が開港して、異人ベーカリーが栄えました。パン食は神戸から近畿、中国、四国地方へと広がりました。昭和初期に大阪の製パン機械メーカーが台頭し、それ以降、近代的な機械化製パンが盛んに行われるようになりました。
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中国地方では、聖フランシスコ・ザビエルがキリスト教の布教活動を行っていた山口で初めてパンが作られました。山口の教会堂の消失後も、広島、岡崎、鳥取に教会堂が作られ、同時にパンも広がります。鎖国とともにパンは焼かれなくなりましたが、幕末には兵糧パンとして復活しました。当時のイギリス留学者は帰国後、パン食普及の先頭に立ちます。明治にキリスト教が解禁されると、教会や学校を中心に各地でパン食の普及がすすみました。
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四国地方でパンの存在が知られるようになったのは明治10年代と推定されています。教会やミッションスクールが誕生したのがこの頃だったためです。それ以降も周辺に大型都市がなかったため大型工場は誕生せず、パン食は学校給食が中心でした。明治28年創業の門田製パン所がパンを焼いた四国地方最古の老舗企業として知られています。
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九州地方は日本のパン食文化発祥の地として知られています。ポルトガル船が種子島に漂着してから、キリスト教とともにパンが広がりました。パンというポルトガル語が九州地方の方言になるほど、パン食が普及したとみられています。鎖国時代にパンはほとんど姿を消しましたが、長崎では熔焼パンと蒸しパンの技術が温存されました。その後、幕末の長崎開港によりパンが復活しました。外国人居留地や軍事・産業の受入れ基地や学校を拠点にして全九州に広がりました。
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「パンの明治百年史」を刊行するために、「パンの明治百年史刊行会」が発足しました。会員はパン製造販売事業者、組織団体及び関連業者から構成されています。
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編集後記として、「パンの明治百年史」の執筆と編集を担当した安達巌氏による言葉が綴られています。
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